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新井明恵って誰?〜就職編〜

2019.09.10 | Category: 自己紹介

こんにちは!

兵庫明石市、女性の腰痛専門整体院のあすらく治療院、新井明恵(あらいあきえ)です。

3編まで続くとは思っていませんでしたが、自己紹介の続きを書いていきたいと思います。

事務職でちんぷんかんぷん

あの大慌ての中で決まった就職。

 

一番最初に勤務した会社は車屋さんでした。

 

しかも、住所もよくわからずに片っ端から電話してかけたので面接に行った頃は、ここはどこ??

 

交野市というところまで行くことになりました。

 

普通科を卒業したので、経理のことをやっていましたが何が何だかさっぱりわかりません。

 

貸方・借方とか勘定項目やら総勘定元帳やら何度説明を受けても全然わかりませんでした。

 

意味はわからないけどとりあえず、パソコン入力をひたすらやった記憶があります。

 

社会は甘くありませんでした。

 

それを痛感した1年目でした。

条件のいいところに行こう

大阪の交野市というところで働いていた頃は、大阪の祖母の家に住んでいました。

 

片道2時間弱。

 

あの頃は今と違ってサービス残業が普通。

 

家を出る時間は6時台、帰宅は22時前後が多かったですね。

 

高校での遅刻やサボりぐせが抜けきれず、1ヶ月に3回は休んでいました。

 

まだまだお子ちゃまな考え方が抜けなくて、

 

“もっといい条件のとこに行こうー”と探し始めました。

 

次に働いたのは、自動販売機設置の飛び込み営業でした。

 

通勤時間は20分。

 

営業なのに、18時には帰れる。そして土日は完全休日でした。

 

最初の頃は楽しく仕事してました。

 

一人暮らしも始めました。

 

車も買いました。

 

しかし、そこで人間関係の問題に悩まされることになりました。

 

私の弱さです。

 

また簡単に退職をしてしまったのです。

引きこもりにアルバイト三昧

人間関係の問題で、人間と接触することをほとんどしなくなりました。

 

スマホの時代ではありませんでしたが、毎日携帯電話で出前をとって、ほとんど家から出ませんでした。

 

しかし、給料がなくなり・・・

 

家賃の支払いや光熱費・車の任意保険・・・。

 

ただ息をしているだけで出て行くお金がめちゃくちゃ多いことにびっくりしてしまいました。

 

そこでこれはやばいと、アルバイトを3つ掛け持ちしていました。

 

休みはありません。

 

遊びに行くこともありません。

 

働き三昧の21歳でした。

どんだけ働くねん

私は社会を舐めきっていたんですよね。

 

心が腐っているとは私のことなのかなと思うくらいです。

 

アルバイトもなんか色々しましたね。

 

ねじ工場、食品の中継倉庫も何件か、重機の事務、お寿司のチェーン店の製造、試食試飲のバ

イト・ティッシュ配り、イベント、不動産のカウンター営業、引越し屋・・・など

 

もう何していたか忘れたものもあるくらいです。笑

 

そして就職最後が、プリンタの営業です。

 

平日は営業でしたが、土日はたまに販売応援に立っていました。

 

もしかしたら会っていたかも知れませんね。

 

結構目立つ販売員でしたから笑

ギックリ腰、迎えに行かされる

そんな時、自販機の営業時代の同僚から電話が。

 

「びっくり腰になって動けんから迎えに来てー!」

 

車で迎えに行きました。

 

腰を曲げてトボトボ歩く友人。

 

「何にびっくりしてそないになったん??」って本気で私は、びっくり腰と思っていました。

 

「びっくりなんかしてへんわぁ!イッター。接骨院連れて行って」と言われ、

 

「接骨院?どこの??っていうか骨折れてへんのに行くん??」

 

接骨院に行ったことがなかった私はそんな感じでした。

 

ちょうど寒い冬の日でしたから、カラダが冷えて余計痛いんだろうと素人判断をして、

 

コンビニでカイロを買って温めてあげました。

 

最初は気持ちがいいって言ってたんですよ。

 

それが・・・

 

「あかん。なんか余計ジンジン痛くなってきた。やばい気がする」

 

もう頭の中はパニックですよね。

 

なんとか言われた通りの接骨院に辿りつき、肩を貸して歩きました。

冷やさなあかんやん

何やら施術室で喋ってる声が聞こえてきました。

 

「温めたらあかんやん!冷やさなあかんで、こんな時は」

 

衝撃です。

 

「え??冷やすの??寒いやん。ここの先生大丈夫か??」なんて思っていたのです。

あれ?もう歩けるの??

連れて行った時より、足は引きずっていましたがなんか違う。

 

あれ?もうそんな感じで歩けるの??

 

すげー!!

 

人間のカラダを冷やすか温めるかで変わるんや。

 

そう感じた時、

 

「私、柔道整復師ってやつになるわー」って友人に宣言しました。

骨折・脱臼・筋肉・神経

私は柔道整復師は、腰痛とか肩こりを治療する人だと思って入学しました。

 

それが入学して出てくるのは、

 

骨折・脱臼・捻挫・打撲・挫傷

 

「え??なんだこれ??」

 

骨・筋肉・神経・内臓、生理学、運動学、、、、、

 

「え??意味がわからん」

 

入学して授業を受けるたびにチンプンカンプンでした。

勉強についていけない

小学4年生くらいから宿題を忘れていませんが、やらなくて。

 

高校生になった時なんて、宿題、予襲復習なんて手をつけたことありません。

 

小テストもできません。

 

提出物も出していません。

 

本当に最悪な学生でした。

 

テストの時は10分間の休み時間が私の勉強時間。

 

いや、丸暗記時間です。覚えれないけど。

 

そんな勉強から逃げていた私が専門学校へ入って、勉強ができるはずもありませんでした。

成績一番最後の仮進級

名前の順は5番でした。

 

専門学校は3年行きますが、1年生の3学期の成績は120人中120番。

 

一番最後でした。

 

試験の赤点ばかりで追試ばかり受けてました。

 

先生に言われました。

「新井、2年に一応上げるけど仮進級やからな。通知簿にも仮って書いてるやろ?」

 

初めて「ヤバイ」と思いました。

 

しかし、どうやっていけばいいのかわかりませんでした。

訓練訓練訓練の日々

2年生にとりあえず上がることができて、

 

「さぁ、気持ち入れ替えて頑張ろう!」そう思ったんです。

 

しかし、

 

1年生の基礎がしっかりできていないから、授業についていけないんです。

 

暗号の会話の授業をされているような。

 

「わからないことがあったら聞いといでやー」って先生はみんなに言ってくれます。

 

“ぜーんぶわからん”って心の声は言ってました。

スパルタの友人

私の席の隣に座っている男の子。

 

いつも偉そうに喋っているのがいやでした。

 

しかし、この人が私を救ってくれることになるなんて思いもしませんでしたが。

 

ちょっと教科書読んだだけで問題が作れて、内容を理解してっていう賢い人でした。

 

授業が終わってから、8時間ずっと勉強しました。

 

毎晩勉強を助けてくれました。

 

私の理解力の低いところから一つずつ課題を出してきました。

 

2年生の期末テストまでは毎度おなじみ追試組にいましたが、基礎をしっかり理解することで

 

3学期には追試はなくなりました。

 

120人中1番になることはできませんでしたが、8版までは追い上げることができました。

 

成績のいい人たちからすると8番なんてと思うかも知れませんが、自分で初めてちゃんとできたことだったから本当に嬉しかったんです。

人はいつからでも変われる

どうしようもない人間でした。

 

迷惑をかける。いい加減。舐めてる。

 

私の過去に出会った人たちは二度と私とは会いたくないと思っている人が多いのではないでしょうか。

 

数名、患者さんとして来てくれていますが笑

 

本当に変わろうとしている時は、苦しいです。キツイ。原因不明の熱も出る。笑

 

けど、それを超えたら見える景色が変わるんです。

 

つらいし、しんどいけど、ほんまに自分を変えたいなら覚悟を決めて臨んだ方がいい。

 

基礎ができてないとステージアップはない

やって来たから言える。

 

ビリビリ実感しているから、はっきり言えます。

 

私は、今まで勉強をする習慣がありませんでした。逃げていたし、やってこなかった。

 

この専門学校の勉強のおかげでわかった。

 

基礎ができてないのに、いろんなやり方をやっても身につかないってこと。

 

例えば患者さんでいうと、筋トレグッズ、腰痛予防グッズなどなど

 

商品の良し悪しというより、自分のカラダの基礎がないのにいろんな物を買ったりしたところで思ったような結果はついてこないですね。

 

早く気づくといいですね。

 

 

新井明恵って誰?〜学生編〜

2019.09.09 | Category: 自己紹介

こんにちは!

兵庫明石市、女性の腰痛専門整体院のあすらく治療院、新井明恵(あらいあきえ)です。

前回の続きで、今回は小学生から高校生までの少しエピソードを話していきます。

運動できない少女

小学生の時は、張り切り少女。

 

特に小学校低学年の時は、男女関係なくサッカーで遊んだり、

 

朝練のバスケットボールに行ってみたり。

 

あ、ルールは全く知りませんでしたけどね。笑

 

ドッヂボールは、、、当たり屋でした。

 

というか、逃げてるんですが、ボールが投げられる方にばかりカラダが勝手にいってしまうんですよね。。

 

大縄跳びは、最初から固定された位置からだと跳べるのですが、回ってる中に走って入るのはできませんでした。

 

もちろん入れたとしても、今度は出ることができませんでした。

 

腹筋もできなくて、なんせ体育は苦手でした。

算数が苦手でがんばろう

座学の方では、算数がとっても苦手で、1年生の1学期の通知簿で引き算が「がんばろう」ついたことを覚えています。

 

そこから算数・数学は全然わかりません。

 

いまだに割合とかできないので、お買い物とか「何パーセント引き」ってのは、なんか安いくらいの感覚でしかいません。

【転機】明石へ転校することに

小学3年生の頃、両親の都合で明石市へ転校してきました。

 

コンビニがない・自動改札機がない・木の電信柱があったり・他多数・・。

 

衝撃でした。

 

通学路を歩いていると、夏はカニが大量に歩いているのをみてさらに衝撃でした。

弟が2人できました

小学4年生の時と6年生の時に弟ができました。

 

弟が欲しいと思っていたので、めちゃくちゃ喜んでいました。

 

私は昔から寝ると起きないので、弟たちが夜泣きしていたかは知りません。笑

バレーボール部に入部

近所の友人に「バレーみにけーへん?」と誘われ、踊るバレエのことと勘違いしてました。

 

「踊らないバレーやで!」って言われましたが、なんのこっちゃと思い、見学に行き、そのまま入部しました笑

 

最初は球拾い・声出しからでした。

 

やったことないことだらけだったので、面白かったですね。

 

3年間バレー部に所属しましたが、あまりうまくありません。

 

ですが、やりきりました。

中学もバレー部

中学生になったらバスケやる!って言っていたのですが、風の噂で「

 

バスケの2つ上の先輩はヤンキーやから怖いらしいで」

 

こんな噂を信じた私は怖くなり、やっぱりバレー部に入部することになりました。

 

結果的に、バスケの2つ上の先輩に可愛がられるなんて思ってもいませんでしたが笑

ついていけなくて苦しい

小学校の時のバレーとは違い、集団行動はあるし、敬語は使わないといけなくなるし、練習時間も、練習内容も、準備も片付けも・・・・

 

敬語は使えなかったのでよく怒られました。

 

集団で声出しながら走るのですが、ついていけずよく離脱して怒られました。

 

練習がきつくなってくると、いい加減にやることが増えたので怒られました。

 

・・・とまぁよく怒られていました。

 

顧問の先生や先輩たちは大変だったと思います、私に色々言わないといけないことが多すぎて。

評議委員・体育委員・修学旅行委員・執行委員

中学生までは、目立つことが好きで。

 

しかもリーダー的なことが大好きで。

 

各学年1回は評議委員(クラス委員)・体育委員になりたくてよく立候補してなっていました。

 

お勉強ができないから、内申点をあげたいという裏もありました。

大反抗期時代の高校生

中学生の時も、少々の反抗はありましたが、

 

高校生の時は凄まじかったと思います・・・。

 

残るブログには書けませんが、相当ひどかったですね。

 

学校遅刻・サボりはよくある話。

 

クラスの中の輪に入っていかない。

 

宿題はしない・提出物は出さない。

 

プリントは渡さない。などなど。

 

この頃は親と喋った記憶はありません。

 

トゲトゲしすぎて誰も寄ってきませんでした。

今振り返ると

なんであんなんだったんだろう??って思いますね笑

 

「成長期」と言ってしまえば、綺麗な言葉で片付きますけど、

 

やっぱりコミュニケーションって大事だなって感じますね。

 

肯定や否定とかではなく、「へぇ、そうなんだ」っていう事実を受け入れてもらえるだけでよかったのかなぁ?

 

って今なら思います。当時はわからなかったけど。

 

就職成功→内定取り消し

高校3年生になってから、進路を決める時、私は「就職」を決めていました。

 

8月くらいに学校からの就職探しで、9月に面接に行き、内定をいただきました。

 

3学期頃から自動車免許の教習所に通い、卒業式まであと1週間となったところで、学校から呼び出し。

 

母と2人で校長室に通されました。

 

校長先生と学年主任・クラス担任・就職内定先の方に囲まれて、

 

「一体なにごと???」

 

要は、内定取消しということで。。。

 

えー!!!って感じで言葉が出ませんでした。

 

私が非行だとかそういうことではなく、就職内定先の経営が1年持ちません。だから他を探してください。ってことでした。

慌てて就職探し

4月から働けるところを見つけて安心していたのが、いきなりこんなことになり就職雑誌を3冊買いました。

 

高校生の私ではわからない情報がたくさんありました。

 

とりあえず最初から見ていきましたが、

・20歳以上

・自動車免許(AT限定不可)

・短大・大卒以上

 

こんな項目がたくさんありました・・・。

 

私は、

・18歳

・自動車免許(AT限定)

・高卒

 

でしたから、とっても慌てました。他になんも資格なかったですしね。

 

とりあえず20歳〜って書いてあっても電話しましたし、

 

大卒以上・AT限定不可のところには片っ端からかけました。

志望動機なんてないわ

何社か受けましたが、まず聞かれることは、

 

「どうして当社を受けられましたか??」の質問です。

 

「んー。。。」答えられませんでした。

 

片っ端からかけているんですなんて言えなかったですしね。笑

 

志望動機なんて考えながら電話していませんでしたから、自分がなんの会社に面接にきているのか、行ったのかすら覚えていません。

 

ですが、なんとか何社目かで受かりました。

 

そんなぐちゃぐちゃな学生時代でした。

 

 

 

新井明恵って誰?〜幼少期〜

2019.09.08 | Category: 自己紹介

こんにちは!

兵庫明石市、女性の腰痛専門整体院のあすらく治療院、新井明恵(あらいあきえ)です。

 

私のことに興味がある患者さんが多いので、ちょっとだけ自己紹介をします。

生まれは大阪育ちは明石

1984年に大阪で産まれました。2480gだったそうです。

 

産まれたての頃は、眉毛があまり生えていませんでした笑

 

夜泣きをすることもなく、寝てるかミルクを飲んでるかのどちらかで赤ちゃんて育てやすいんやぁと思ったそうです。

 

ハイハイや立つ・歩くのが遅く、大丈夫かな?と不安にもなったようです。

自由人は小さい時から

近所の友達ができて、仲良く遊んでたかと思ったら、かくれんぼをしている最中に寝てしまい、友達やおばあちゃんを困らせていました。

 

探検ごっこが好きで、近所の友達の先導にたっていろんな道を散策して遊んだりしていました。

 

自転車のコマを外すのに日にちや時間がかなりかかった記憶があります。

めんどくさい子

泣くときは叫ぶような感じで大きな声で泣くので、よく口を塞がれました笑

 

阪急百貨店でおもちゃをみていた時に、近くにいた知らない男の子が駄々をこねて泣いて買ってもらっている姿をみて、

 

「私も泣いて大の字に寝転がったら買ってもらえる!」

 

と同じことをしてみたんですが、、、、

 

「じゃぁ知らない、さよなら」

 

と母に言われ置いていかれ、焦り走って追いかけた記憶があります笑

ケンカっ早い一面も

正義感があったのでしょうか、近所の子が年下ばかりってのもあってプライドってやつも出てきていたんでしょうね。

 

なわとびでみんなで遊んでいる時に、同じ公園で遊んでいた5つと6つ上のお姉ちゃんたちに

 

「なわとびかして」

 

と言われ、

 

「今遊んでるからヤダ」

 

って言ったにも関わらず、1本のなわとびを巡る引っ張り合いが始まり、力で負けた時に、

悔しくて

 

「もう帰る」

 

って帰り、家にみんなでなわとびを持ってきてくれたのにも関わらず、投げ捨て

 

「いらんわ、こんなもん」

 

次の日もその次の日も、、、お姉ちゃんたちが謝りにきたり、親御さんが謝りにきても怒っていたのを今でも覚えています。

ドロッドロになって遊ぶ

今では遊び場所が減ってしまいましたが、探検していると田んぼ端っことかを「近道」とか

言って通るんですが、ぬかるんでいるので靴や靴下は泥だらけ。

 

家に帰ると

 

「またあんたは、もう・・・」

 

いつもため息をつくおばあちゃんがいました。

誰にでも声をかける

いつもの公園で遊んでいると軽トラがとまり、タウンワークを回収して新しいタウンワークと交換しているおじちゃんがいたので、

 

「手伝ったるわ」

 

なんて生意気なことを言いながら勝手にお手伝いさせてもらいました。

 

今じゃこんなこと考えられませんね。

好奇心旺盛

見るもの全てが遊びで、なんでもしたくて。

 

木登りしてたら、自分もしてみたくなったり。

 

昆虫触れる子を見ると、自分も捕まえてみたり。

 

なんでも興味をもつ大変な子でした。

幼稚園ではすみっこ暮らし

こんなちゃきちゃきして見える幼少期でしたが、幼稚園ではめちゃくちゃおとなしい子。

 

一人でブロックで遊んだり。

 

あまりみんなの輪に入れなくて、男の子にいじられてすみっこでメソメソしていました。

 

幼稚園の先生が優しくて大好きだったので幼稚園に行っていたものの、基本は幼稚園が好きではありませんでした。

記憶力はよかった

あの頃は、我が家はトランプが流行っていました。

 

ババ抜きはめちゃくちゃ弱い。

 

顔に出るんですよね笑

 

だからすぐ負ける。何度やっても笑

 

神経衰弱は強くていつも勝っていました。

 

絵本も大好きで、昔話は本の書いておることを一語一句見ずに読んで褒められて喜んでいました。

 

だからその頃から記憶力はちょっとだけよかったんです。

幼少期は自由

母も働いていて、いつも帰りは夜でした。

 

おばあちゃん子で、めちゃくちゃ甘やかされて育ったと思います。

 

覚えているエピソードはまだまだありますが、こんな感じで自由人はこの頃から出来上がっているんだと思います。

 

興味があれば会った時に答えますね笑

 

まぁまぁ破天荒な幼少期の新井明恵でした。